私たちは、すぐに調子に乗ったり、簡単に落ち込んだりするから…

本日、書道朝活でした。

 

一ヶ月ぐらい前に、新しい半紙を使うようになったとき、
なんだかうまくなったような気がしました。

 

でも、それはほんの一瞬だった。

 

同じ頃、筆の持ち方を修正するべくご指導頂き、
意識しているのですが、自分の癖を超えるのはなかなかに難しい。

 

余計に力が入ったり、ぎこちなくなったり、
思っていた線が書けなかったりが続くと、
勝手な「ダメだ」感に支配されそうになってゆく…。

 

半紙の質が違うと、以前には滲まなかったところがぼってりとしてしまう…。
(私は、これを心の中でボッティチェリ現象と呼んでいる・笑)

 

今日も、そんなふうに試行錯誤を重ねてどちらかというと不本意なまま、添削をお願いしたら、
「あら、いい線じゃない。随分とまた変わってきた」と言われて「え、そうですか…」と驚く始末。

 

「思うように書けてない」と思っているけれど
そもそも自分の「思うように」が、独りよがりなもので
この「道」において「佳し」でなかったりもするわけで。

 

「そう思うということは、以前よりも線質の微細なところに眼がいくようになってるのよ」

と言っていただくと、それも一理あるよなと思う。

 

何も考えずに無意識でやっていたところに、「意識」を向けているわけだから。

 

先生も言われる。
「自分が『いい感じ、できてる!』と思ってるときは、だいたい前のめりになっているのよね」と。

 

確かに、よく書けたと思ってるときほど、意外なところで直されたりする。

☆   ★   ☆

なんらかの「道」を進むとき、「掴んだ」「やった」と思った時点で、成長や進化が止まってしまう。
そうすると、更なる大きなものに出逢えなくなってしまう。

 

その「道」の、さまざまな落とし穴にはまらぬよう、気づかせてもらえる、

我に返らせてくれる師の存在、ものすごく大切です。

☆   ★   ☆

 

「ブレない自分軸」という概念が流行っているようですが、
「ブレないように」と頑張るのではなく、
私たちは、すぐに調子に乗ったり、簡単に落ち込んだりとはなっから「ブレる」生き物だから、
ブレたときに、ブレそうになったときに、いろいろな形で気づかせてもらえるように、
師匠だったり、コーチだったり、伴走者につく。

そういうしくみを作っておくのが賢い「道」の歩き方、と思います。

 

私には、上述のように書道の師匠がいて、
ベリーダンスの師匠がいて、
舞うこころとからだと魂をつなぐための師匠がいて、
かつては、料理の師がいて、
既に故人となられた方の在りし日の言葉、書籍からも学んでいます。

 

そして、その師匠たちにもあらゆる師匠がいて、現在もあらゆることを学び続けられています。
時に、私もそのエッセンスを、気づきを大いに頂いています。

 

そんな私は、

  • 自分自身の育て直し → こちら
  • からだをゆるめて自分のからだの声を聴く方法 → こちら
  • ふるふるゆさゆさと相手のこころとからだをゆるめる整体術 → こちら
  • 野菜だけで美味しく料理する術 → こちら
  • 柔らかい場を創るファシリテート術 → こちら

に関しては、ご指導、また伴走し続けることができます。

 

以上は、すべてさろん楓オリジナルの術です。

背後に何らかの協会の存在もないので、何かを強要されることもございません。

ご自身の技術のひとつとして、活かしていただくことができます。

 

「自ら学び続けながら、教えてゆく、魂を磨き続ける」循環の環に、あなたも足を一歩踏み入れてみませんか。

 

※左から 草書、行書、楷書

 

※私が通っている書道塾は → こちら

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