さろん楓 真帆です。
いつもありがとうございます。
AC(アダルトチルドレン)という言葉を使っていると、
ときに「その言葉が邪魔して、真帆さんがやっていることが必要な人に届かないんじゃないの?」
とズバリな指摘をされることがあります。
うん、私も悩むところです。
毎回、悩みます。
確かに、ACって「幼少期に虐待を受けた人たち、それをまた繰り返してしまう人たち」
というように、大いに誤解されているのですよね。
悩んだ挙句、でも、やはり「AC」という言葉を使い続けようと思うのは、
AC(アダルトチルドレン)って、自己認識だからなのです。
これ、診断用語ではないのですね。
(だから、誰かから「あなたはACだ」と指摘を受けたりすることがあったら、
その人はよくわかっていない人だと思ってください)
ACを定義するとすれば、
「現在の自分の生きづらさが生まれ育った家族の機能不全に起因する」と認めている人たちのこと。
またその認識そのものを指します。
先ほども書いたように、ACとは、幼少期に凄惨な虐待にあってきた人たちと誤解されることが多いのですが、
必ずしもそうした「身体的体験」ばかりが、生きづらさの原因になるわけではありません。
暴力、暴言のない家庭、教育熱心な家庭、愛情豊かな家庭でも、
私たちは「心理的、情緒的に見捨てられた体験」をすることがあります。
「こうあるべき」が強く、自分の欲求やニーズを尊重されない、
感情、気持ちに共感してもらえることなかったなど、
情緒的な関わりが乏しい家庭で育つと、
私たちはそのまま親のコミュニケーションを学びますから、
適切に感情を感じたり、表現したりすることが苦手になります。
そうすると「自分がわからない」。
空気を読んだり、人を優先することはむしろ得意です。
でも、自分がわからなければ、人もわからない。
そうして、人との距離感、境界線をとることが難しくなったりします。
自尊心が低くなります。
自分の気持ち、自分のからだを大切に扱うことが難しい。
とはいっても、その人たちは一見悩みを抱えているようにはみえません。
むしろ、成績もよく、優秀だった方が多いです。
職場でも有能で気配りもでき、仕事もできて評価されている方が多い。
誰より、認められたい、評価が欲しいから、頑張り屋さんが多いです。
仕事で自己主張はできるのです。
でも、自分の気持ちは言えない。
自信がない。
誰かが羨ましい。
いつもいつも我慢してしまう…。
波風立てないように「いい人」をやっていつも疲れてしまう…。
そんな悩みを抱えています。
こういうお話をすると、
「だとすると、日本人は皆ACってことになりますよね?」
という方がいます。
確かに、その通りかもしれない。
でもね、大切なのは「私がどうか?」なのです。
「皆がどうか?」ではない。
人がどう言おうと私は苦しかった。
端から見たら恵まれているかもしれないけれど、私はツラかった。
そんなふうに真に「私」に目覚めた人だけが
ACという自己認識にたどり着く。
ACであることを言い訳にすることもできるけれど、
やっぱり自分をあきらめたくはない。なんとかしたい。
そんなふうに考える「チカラのある方」「芯の強い方」が来られます。
頑固かもしれない。ひねくれているかもしれない。
でも、一生懸命本質を求めている不器用だけれど美しい人たち。
いちいち疑ってかかる。ひねくれる。挑んでくる…、反抗してくる…。
ちょっとめんどくさい(笑)人たち。
でも、私もそういう人だから、めちゃめちゃわかる^^
でも、そんな人たち同士だから、結果的にいい学び合い、響き合いができるようになる。
ACという自己認識から立ち上がった人たち、
「他力本願」から「自力」に目覚めようとする人たちと出逢いたい。
だから、悩んだ末にやっぱりAC(アダルトチルドレン)という言葉を使い続けようと思うのです。
5.2(月)AC(アダルトチルドレン)・リボーン勉強会にちょっとでも興味がある方のためのおはなし会
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