人が苦しんでいるときにどう寄り添うか?

さろん楓ふなだまほです。

いつもありがとうございます。

 

身近な人が苦しんでいるときに、
自分はどうあったらいいか?どう寄り添うか?

これ、ものすごく難しいテーマです。

 

相手を変えようと躍起になったり、
責任を感じ過ぎてしまったり、
無力感をおぼえて、何もできない自分を過酷に責めたり、
いくらアドバイスしても相手が言うことを聞かないことに
苛立ってしまったり…。

 

そんなときに「自分だけしあわせになってはいけない」と
罪悪感にかられて、自分の人生の駒を進めるのを
あきらめることだってあります。

 

そうしたら「何も言えない、できない自分」に苦しむ必要もないから。
ツライからおあいこだよね、だから文句を言わないで、と言わんばかりに。

 

「自分だけいいわよね」と思われないようにしてしまうのです。

 

でも、それでは怒りばかりが溜まる苦しい関係性になってしまいます。

★  ☆  ★

…AC勉強会が進んでいくと、
そんなシチュエーションに遭遇することもあります。

 

ツラくて心配される立場、
ツラそうな人を心配する立場、
両方を経験していくこともありますね。

 

同じメンバーで学び続けるからこそ訪れる学びです。

 

私たちは、心配する方が簡単なんです。
信じるほうがはるかに難しい。

 

でもね、自分が乗り越えたことのある人は、
相手を信じることができるようになります。

 

きっとあの人は越えられる。大丈夫って。

だって、私が大丈夫だったんだからって。

 

信じられた人は、信じられた通りになっていく。

 

だって、誰からも信じられない出来事や変化、変容が
起きるわけないでしょう?

 

だから、信じる人が必要なのです。

 

「見放す、見捨てる」のではなく、
「手は放して、見守る、信じる」です。

 

親、上司、先輩に必要な意識でもある。

 

そして、見守っているよということが
相手に届くように、私たちは表現をしていく。

 

いろいろな手段があります。

 

言葉や目線、手によるタッチ、態度。
手紙、メール、贈り物。

 

家族だったら、それは部屋を整えることかもしれない。
花を飾ることかもしれない。
美味しそうな香りが漂うことかもしれない。

 

同じ言葉を言うのでも、
言い方が違えば、違って相手に届く。

 

そっぽを見て言うのと、目線を落として言うのと、
相手の目を見て言うのでは伝わり方が違うのです。

 

表現は、自分自身そのものです。

 

茶化したり、照れたりしないで

大切な人に、大切なことを、大切なときに言えるように。

 

感謝されるためとか、
自分の存在意義や優位性を証明するためとか、
重要性をわからせるためとか、
そんなことではなく。

 

できるだけ余計なことはしないように、
余計なことをする時間やエネルギーがあるんだったら
自分が進む道に向けられるように。

 

AC勉強会の中の大切なレッスンでもあります。

 

★    ☆    ★

ある方からのメールをご紹介します。

 

 

人の気持ちや境遇に共感はしても、
その責任まで負う必要はない。

 

いくら人から何を言われても、
本人が自分で気付いて腑に落ちない限り、
癒しや解放は起きないのですよね。

 

私自身がそうだった。

「理解」は出来ても、
「体感」が伴わなかった。

 

私ができることは、
「ただ、そこにあること」だけなのだと思います。

それが「相手を信頼する」ということ、「愛」ということ。

 

うわー、むっちゃ根気がいるなぁ…。

 

まだ、「口」や「手」を出してしまいがちなので、
そうできるようになりたいです。

そこを理解することがまず最初の一歩。

 

その先、出したい手をぐっとこらえて、
見守ることができるようになることがまた一歩。

 

心配にエネルギーを使うのではなく、
信じることにエネルギーを使っていくことがまた一歩。
ぐっとハラに力を込めて。

 

これを理解しはじめ、実践しはじめている人がいます。

 

そんなハラの強い女たちが
さろん楓から巣立っていきますように。

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