自分史が埋まるということ

さろん楓 真帆です。

いつもありがとうございます。

 

ある続AC勉強会の参加者の感想を掲載しました。

ぜひ読んでみてください。 ⇒  こちら

☆    ★    ☆

うん、そうなんだよね。
確かにそう扱われた。
それを当たり前と思って、いや、当たり前と思う以外の道はなくて、

自分でも自分をそう扱ってきた。

暴力とか暴言とか、それに類する権威や圧力によって
ぺちゃんこになってしまった自尊心のままで
ひとりで立ち上がっていく、人の中へ出て行くというのは、

あり得ない道というぐらい、高い、厚い壁で阻まれているようなもの。


怖いなんて自覚できたら、それはまだましなほうで、

ただ身動きできずに、そんな自分を防御することに精一杯だったりする。

 

どこかで違うと思いながらも、そんな自分を一生懸命に正当化したり

理論や知識などの鎧をまとうことに奔走してみたり。

 

でも、もうそれも嫌だと感じた方たちが

ここ、さろん楓にはやってきています。

 

その状況を理解し、自分に起きていたことを正しく、客観的に知り、

そこから自分の脚で立っていこうとすることに、いったいどれだけの勇気が必要か。

 

生まれたばかりの小鹿が細い脚で必死にたちあがろうとする、

それをただ端で見ているしかできない、でも、一緒にこぶしを握り締める…。

いつもそんな想いでいます。

 

だって、それはこれまで頑張ってきた自分、

信じてやってきたことを全否定することでもあるから。

 

ある意味、丸裸に、からっぽになるようなもの。

だから怖いし、抵抗感もめちゃくちゃ出る。

 

権威に屈していることのほうがラクなことさえある。
どうせ…、私なんて…と言って誰かのせい、何かのせいにしていたほうがラクだ。

もしくは、それを綺麗にすり替えてくれる自己啓発やスピリチュアルに邁進していたほうが

よっぽど救われるかもしれない。

 

でも、もうそれをしないと決めて、何も持たない「私」として立ち上がろうとする人たちの
人としての尊厳、高潔さに私はいつも鳥肌が立つほど感動する。

 

端から見たら、「恵まれて」いたかもしれない。
でも、だからこそ「ツライ」なんて言えなかった人たち。

 

そんな自分は「弱くて、ダメだ」と自分を過酷に非難し、

叱咤激励し続けてきた人たち。

 

痛い。でも、強い人たち。

 

でも、そこに気づいたことに私は拍手を送らずにはいられないのです。

☆   ★   ☆

でね、そのチカラと強さの使い方、間違っちゃったら人類のためにならないと思うのです。

 

私が、自分の中にあった「強さ」の使い方を変えたら

それが「さろん楓」になりました。

 

小さなチカラだけど、決して小さくはないと思っています。

 

ああだった私が今、こう在るのだから、

(こういう話は、AC勉強会やおはなし会、セッションなどでいつもしています)

みんなも大丈夫って、私はいつも確信しています。

 

読んでくださってありがとうございます。

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