赤ちゃんの頃の自分は文句なしに可愛いけれど、
小学生の頃の自分の写真は、正直なところ、あまり好きではない、と思っていました。
…12年ほど前のことでしょうか、
ACの癒しを始めたときに、子ども時代の写真を見るという課題があって、アルバムを覗いたら、
自分で過去の自分の表情、姿にショックを受ける…という事が起きました。
改めて、自分がACであることを認識するような、二次トラウマみたいなもの、ですね。
笑ってなくて、イキイキしていなくて、神経質そうな自分。
そうして、長いこと、あまり好きではないものとして自分の中に認識されていたのです。
★ ☆ ★
でも、先週になぜかアルバム一式が私の元に運び込まれ、
先日、ふと一冊を手にとってめくってみたら、
ああ「私がいる」「私だ」と思った。
純粋な目でまっすぐにこっちを見すえて、落ち着いて、ただそのままでそこにいる私、です。
そして、それをそのままに、父が撮っていてくれたことを心から嬉しく思いました。
この写真、隣にひとつ歳上の従姉妹がいるのですが、
二人とも、子どもらしからぬ表情で写っています。
無理に笑顔を作らせることなく撮ったのは、
被写体のそのものの正しい姿、真実の姿を撮ろうとし続けてきた父の撮り方の真骨頂だな、なんて思います。
(父は、コミュニケーションが下手くそなことがコンプレックスで
篠山紀信さんのように、対話で相手の魅力を引き出していくような撮影は到底できずに、
でも、モノ相手に静かに心の中で語りかけると美しさを放ってくれた、モノ相手だとそれができた、
そして、商品を美しく撮ることにかけては敵わないよと仲間から言われ、
自然と物撮りの専門家になっていった、という手記が残されていました)
それをこうして美談にできるのは、父が既に魂の人となっているからで
見送りし者の特権なのかもしれませんね。
だって、生きていたら心配や不安が先だってそんなところに焦点を当てられないもの。
同時に、母が手をかけてアルバムにしてくれていたことに
言葉にならない温かさを覚えます。
…こういう目をした子どもを大人は怖かったかもしれません。
嘘がないから。
好きではないと思った10年前、
私が、私自身のこのまっすぐなまなざしが怖かったから、
あまり見たくなかったのだなと思います。
直視できない何かがあったのですね。
でも、今は、そうではなくて、安心感があります。
初めて本当のこと、自分の真実が視えたような嬉しい感覚です。
そして、私が今、思います。
この目に恥じないように生きようと。
★ ☆ ★
なんでこんな変な顔の写真ばっかり残ってるの…と思ったりもしてたのです。
でも、それは裏を返せば、父がどれだけ、私を追って、
その一挙手一投足にシャッターを押していてくれたか。
…なんて、その人の本質をより身近に感じられるのも、そこに愛を感じられるのも、
もう現実的な心配や不安がないから。
見送りし親との関係は別のフェーズに入るのだな…と思いました。
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