「自分が、それを、感じられなくちゃ意味ないんだ」

AC勉強会、続AC勉強会と終えた方には、1年の振り返り感想文が宿題として出ます。

ある方の宿題感想文、ご紹介させていただきます。

さて、ようやく1年間の勉強会の消化をはじめました。ので、感想です。
遅いっ!! って自分で突っ込みを入れてしまうくらい
おなかいっぱいな講座だったんだなぁと思ってます。
いろんな意味でね。

 

結局のところ、自分の中になにがあるかって
自分は「愛されたい」し、「大事にしてもらいたい」
ただ、それだけなんです。それだけだったんです。

 

いろんなこと、たーくさん学んできたけど、それだけだったんです。

 

でも、それを受け容れるまでが、ものすごく大変だった。
頭でなく、身体だけでなく、トータルで受け容れるってことがね。

 

でね、同時にね、それが満たされないことが怖くって
「一人でも平気」とか「人と一緒はめんどくさい」って
ずっと、鎧を身につけていたんだなって。

 

愛されたいし、大事にされたい。
でも、現実には愛されてなくて、大事にされてないって
そんなこと、認めたくないよ。
そんなの、認められないよ 。

 

こういうこと書くとさ、世の中にはさ、したり顔で
そのままで愛される価値があるとか
ありのままのあなたで愛されるとか
人はたくさんの人に支えられているとか
要するに、そんな綺麗なお題目たくさんあるけど
うるせーってんだ。
そんなの関係ないんだよ。
自分が、それを、感じられなくちゃ意味ないんだ。

 

今、この瞬間、わたしは愛されている、大事にされている実感がない。
ただ、それだけで、こんなに苦しくて悲しいんだ。
涙が止まらないほど、わたしは寂しいんだ。

 

だから、ただ、それを嘆く。

さみしい、かなしい、せつない。

 

どうして、わたしだけ、こん なおもいをするんだろう。
どうして、誰も、わたしを愛してくれないだろう。
わたしは、誰からもだいじにしてもらえないだろう。
そうやって、すねて、いじけて、嘆きつくす。

悲劇のヒロインぶって、自己憐憫にひたって
ようやく、それを、自分にゆるせた気がします。

 

同時にね「愛されたい」「大事にされたい」という想いと
それが「満たされる」ことは別なんだなってわかった。

 

もちろん、「愛されたい」し「大事にされたい」。
その欲求が満たされることを望んでいるけれど
でも、それは、あんまり関係ないんだって思う。

 

説明が難しいけど、全然関係ないわけじゃないけど
あんまり関係 ないというか、同じじゃない、というか。

ああ、ややこしいな。

 

わたしの左肩にね、小鳥が二羽いるんですよ。
「愛されたい」ってチーチー鳴いてるの。
「大事にされたい」ってチュンチュン鳴くの。

でね、わたしは、その二羽の小鳥を飼っているんですよ。
わたしはね、その小鳥たちの飼い主なんですよ。

だから、関係ないわけじゃないけど、ひとつでもないんです。

ほうっておくと、うるさいんだ。
チーチー、チュンチュン、うるさいんだ。
だから、その鳴き声しか聞けなくなるときがある。

 

でも、わたしは飼い主だからさ
「そっかそっか」ってかまってやると
少しだけお となしくなるんだよね。

 

きっと、この鳥たちがおとなしくなることはない。
ってことはわたしの中にある「愛されたい」「大事にされたい」が
なくなるときもこないんだと思う。

 

だけど、もう、仕方ないから。それは仕方ないから。どうにもできないから。
どうにかしようとがんばってきたけど
どうにもならないことが、この1年でよっく理解できたから。
だから、この二羽と一緒に、この想いを抱えて生きていくしかない。
そう腹を括ると、まあ、そう悪いもんでもないなって思います。

 

うーん、伝わるかな。
消化を始めたばっかりだから、まだうまくまとまらないようです。

でわでわ。

「うるせーってんだ。
そんなの関係ないんだよ。
自分が、それを、感じられなくちゃ意味ないんだ」

というこころからの叫びに、からだが熱くなり、思わず涙がこぼれました。

 

そうだよ、そこなんだよね。

 

欲しいものを手にすることができるように、

そんな想いでさらに響き合う上級クラスを開催しています。

★    ☆    ★

 

 

私たちが誰かに対して

  • 愛してる。
  • とても大事。

という気持ちを抱くとき、

それをどうやって表現するのだろう?

 

「愛してる」「大事だよ」と言う?

 

でも、24時間耳元で「愛してる」「大事だよ」と囁かれていたとしたら、どうかしら?

 

「愛してるなら○○してよ」

「大事に思っているならもっと△△してほしい」

という気持ちが湧いてくるのかもしれない。

 

「愛」って実に曖昧な言葉、かつ、実にうつろぎやすい感情で、

即座にいろいろなモノにカタチを変えてゆく。

 

それが当たり前になると、私たちは意識しなくなる。

空気みたいに、ね。

 

期待に応えなきゃというような重荷や責任にも変容する。

 

だから、しょうがないって言いたいんじゃない。

 

誰かの“愛している”からの「行動」に、

「私」はその愛を感じ取れているのだろうか?

 

もし、感じていないのだとしたら、いったい何が欠けているというのだろう?

どうしたら、「私」は愛されていると感じることができるのだろう?

 

そして、その「私」は、愛していることを充分に表現できているだろうか?

相手に伝わっているだろうか?

伝わっていなかったとしたら、そこには何があるのだろう?

 

「ただ、言えばいいんでしょ」という想いで言う「ごめんなさい」と

本当に申し訳ないという気持ちから言う「ごめんなさい」は違う。

 

山登りで、すれ違う人を認識した自動反応スイッチで言う「こんにちは」と

同じ時、同じ山に来た共時性を尊重してする「こんにちは」や会釈はまったく違う。

 

無感覚はある意味でラクかもしれない。

これ以上傷つかないかもしれない。

 

これまで人生を支配していた「ひねくれ」や「あきらめ」「怖さ」を超えて、

自分を信じていくこと、人を信じていくことはかなり勇気がいる。

 

感情をシンプルに感じていくこと、

それを表現していくことも、生易しくはない。

 

恥ずかしいからはぐらかしてしまったり、

なんとなく茶化してしまったりすることも多い。

 

でも、感じたい私たちは、

そのセンサーを高めて、磨いて、

素直に自分の感情を感じ、肯定する。

その想いを表現していく。

そして、相手の感情、表現を受け入れていく。

 

上級クラスでは、それをやっていこうとしています。

カリキュラムのないクラスです。

 

「どうだったら、感じられるというんだよ?」という自分のこころの叫びに

自分自身が応えるために。

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