【悲しむものは幸い?!】
私は、実はクリスチャンなのです。
幼い頃は、プロテスタントの幼稚園に通い、
讃美歌や教会の雰囲気、聖書の物語を楽しんでいましたが
本格的に聖書に出逢った時期、年齢が難しかったのでしょう、
いろいろと受け入れられないこと、理解できないことがあって
中学1年のとき、家族の方針で洗礼を受けましたが、
その後ずっーと不良信者を貫いています。
(八百万の神という概念のほうがしっくりきますね)
例えば「右の頬を打たれたら、左の頬も出せ」って、
本当にそうか?
「目には目を、歯には歯を」精神でなければ
で生きていかれないのではないか?
などと、聖書のあちこちに???だったのです。
でも、あのとき、わかりやすい解説をされることなく
疑問を持ち続けたまま大人になったことを
今は、本当によかったと思っています。
理屈だけ飲み込んで、わかってると勘違いしてしまったと思うから。
わからなかったことが「あ、そうか!」と突如わかるようになる…。
それがなんとも楽しい43歳の時間を私は過ごしているわけですが、
先日、60歳になろうとする尊敬する保育園園長も同じことを言われていました。
「60になっても、あー!とやっとわかることがあるわよ」って。
人生経験を重ねると言いますか、
成熟するというのは、なんとも未知なことばかり。
楽しみになりますね。
何かを学んで、人生を、人間をわかったつもりになることのほうがちょっと怖いかもしれない…。
★ ☆ ★
先日、ある方とセッションを終えたときに
突如として、これまた聖書の言葉
「悲しむ者は幸いである。その人は慰められるだろう」が浮かびました。
これも、もちろん意味をちゃんとわかっていなかった。
自分とは無関係な世界と切り離して考えていたように思いますが、
先日は初めて、この意味するところがすとんと腑に落ちた気がしました。
目の前の彼女のこととして。
そして、自分のこととして。
彼女は、その数日前の勉強会の際に、とても苦しい状況にいました。
「いつもは、話したい、聴いて欲しい、皆の話を聴きたい自分なのに
こんなに勉強会に行きたくないと思ったことは初めてだった」って。
それでも、勉強会にはやってきた。
そして、そのツラい自分を取り繕わなかった。
明るく「平気」を装うこともしなかったし、ツラい表情そのままでいた。
そして「今日は話したくない」ことを自分の言葉で言われました。
それは、とても勇気のいることだったと思います。
私は、それでも休まずに来て、嘘のない姿でそこに存在し続けていた彼女の姿から、
人への信頼、それでも人と関わりたいという意志、助けて欲しいという願いをひしひしと感じ、
それをとても愛しく、ありがたく思いました。
なので、それをそのまま伝えました。
セッションのとき、彼女がその日を振り返って話してくれたのですが、
「腫れ物扱いされてもしょうがないような状態の自分に真帆さんも、皆さんも普通に接してくれた。
真帆さんの前では、今までだってそういう自分を見せていたと思うけれど、
勉強会のみんなの前でそういう自分を見せてしまって、
それでも誰も態度を変えないでいてくれたことでなんだかものすごくほっとした」
誰だって、そんな弱い自分は人に見せたくない。
ちょっとのことだったら、人は平気なふり、大丈夫なふりだってできてしまう。
むしろ、社会で生きていくためにはそういう「やり過ごす」術のほうが必要なわけで
私たちの多くはそっちのほうが得意ではないかしら。
人の中にいて、リアルな自分でいることが心地いいと分かった人が、
ツラいときにもリアルであろうとすること、自分に嘘がつけなくなること、
これは、超えられる人にだけ用意されたひとつのハードルなのかもしれません。
だって、そんな場から逃げちゃうほうが楽だもの。
…覆い隠せないほどしんどいから、そうせざるを得なかった。
なんて言ったらいいんだろう?
それほどツラかったから、どうしようもできなかったから
そんなふうに人に受け入れられるという体験ができた。
(聖書の言葉は、人にだけでなく、神様に助けを求める、委ねるという大きな意味をもっていると思います)
だから、よかったな、と思ったのです。
そして、それは、同時にそれを受け入れた人たちにとっても、
温かいものになっていったのではないかと思います。
自分たちもそれをして大丈夫なのだ、と心に刻まれる。
そう、だから、悲しむ者は幸いである なんだなって。
悲しみとか苦しみは、なんていうか、
心から不純物を取り除くような効果があるのですよね。
私たちは、いろいろなことが順調で、自分の思い通りにことが進んでいる時は、
得意になって、自分の力を過信して高慢になっていく…。
調子に乗っちゃうんですよね。
でも、思いがけずツラいことが起きて、壁にぶち当たったりして行き詰ると、
自らの弱さを認め、他者の助けの必要を強く感じたり、
それが、自分の考えや行動を見つめ直したり、エゴや執着から離れるきっかけになったりもする。
自分の弱さや限界、どうしようもない自分、こうはなりたくないと嫌悪したり、
批判していたところが自分にもあることを認めるなど、
言葉にすると平易ですが、実際にはなかなかに難しいことです。
病気も言葉を使わないこれらの表現…と言えるでしょう。
私たちは、それを巧妙に避けたり、ごまかしたりしてしまいますが
私たちの人生の最も悲しい、ツラい時が、最も有益な時…なのだと思います。
だから、私は、クライアントの皆さんと共に
悲しみや苦しみ、傷みを見つめる時間はとても愛しいのです。
でもね、その分、からだはしあわせ、快適が好き。
それゆえ、おいしいごはんとエネルギーの通るからだをひたすら追求するのです。
【悲しみよ こんにちは】
話が飛躍するようですが、今、霊柩車って見ないですよね?
父のときも、祖母のときも、まったくわからないような車でした。
「死」をはじめ、いわゆるネガティブなものが
どんどん忌むべき対象になっている時代風潮を感じます。
この記事を書きながら、ふと「悲しみよ こんにちは」というフレーズを思い出しました。
フランソワーズサガンの小説もそうですが、
斉藤由貴さんが美しい声で歌っていた♪悲しみよこんにちは♪です。メゾン一刻ですね^^
この曲、ドラムが好きだったなぁ。名曲と思います。
♪不意に悲しみはやってくるけど 仲良くなってみせるわ
…だって 約束よ♪
(歌詞は→こちらをどうぞ)
あー、懐かしい。
今こそ、この姿勢で、悲しみや寂しさを自分の中に迎え入れて、仲良くなって、
その実りや味わいを人生に反映させて、いい女として生きてまいりましょ。
とは言っても、ぐちゃぐちゃ悪いほうにばかり考えてしまって
仲良くなる方法がわからない方はご相談くださいね。
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