ただ単にこわかっただけなのです

昨日のことです。

 

ダンスのレッスンだったのですが、
実は、ものすごく気が進まなかったのです。

 

あー、やめたい、ぐらいに思っている自分がいるわけです。

 

でも、だからとて、休もうとするわけではない。

 

うん、ただ単にこわかっただけなのです。

 

何が?

 

昨日は、次にどんな踊りをやりたいかを先生と話す日でした。
先週からそんな話をしていたのですが、
前回の意向から一転、私の中で気持ちが動いた…。

 

でもね、それを言うのが怖かったんですよね。
そんなの無理だとか、難しいねと言われたらどうしよう?

 

表現にチャレンジしたいから踊りをやっているくせに、
本当に表現してみたいことを知られるのは恥ずかしい…という想いも渦巻く…。

 

やってみたい、とはすなわち、自分に期待感があるわけだけど、
そんなことを言って思うようにいかなかったらどうしよう?

 

そんな怖さが次から次へと出てくる。

 

…本当に私たちは弱い生き物だよね。
要は、傷つきたくないわけです。

 

安全の欲求ってそれだけ強い。

 

 

☆    ★    ☆

 

カウンセリングでよく聴くストーリーに
「これは、自分が本当にやりたいことではないのではないか?と思ってしまった」があります。

 

やってみたいことをやろうとして、それなりに頑張ってきたのに、
どうにも前に進めなくなったとき。

 

得体のしれない抵抗感が出てきたとき。

 

あれれ?それは、本当にやりたいことではないからではないか?と自分を疑ってしまう。

 

本当にやりたかったらやるよね?
やる気が出てこないのは、やっぱり違うんじゃ?って。

 

それね、今日の私のように、ただ単に怖いのではないかしら。

 

人は、新しいこと、初めてのことは喜ばしいことであってもストレスを感じるものです。

変わる、変えるって、本当は怖いんだよね。

 

それを「本当はやりたくない」という解釈へ持っていっているのは自分。

やらないで済むように、変化という怖さを体験しなくて済むように
正当化する言い訳はもういくらでも用意できるもんね。

 

実のところ、やりたいことの原点にある「わくわく」とか「歓び」は
すごく微細なものだから、恐怖にはいとも簡単に消されてしまう。

 

本当のことって、本音ってちょっと恥ずかしい。
そして、怖い。

 

そんな細胞がうち震えるような微細な感覚からスタートしていなかったとすれば、
人にどう思われるかで判断したことだとすれば、
全く違う感触があるのではないかな。

 

でも、それもね、ひとつの体験として経過するといいと思います。
さんざん回り道して、自分の感覚に辿り付く。

 

どっちにしろ、私たちは、安きほうに流れる。
自分をごまかすほうがラクなんだよね。

「本当の自分で生きる」って、実に難しい道です。
だから、自分の姿を見せてくれる共に響き合う仲間が必要だよね、
というところにさろん楓は何度も辿り付いています。

 

どっちにしろ、私たちは、安きほう、ラクなほうに流れる。
自分をごまかすほうがラクなんですよね。

 

「本当の自分で生きる」って、実に難しい道です。
「さんざん回り道をしている」と、あまりに苦しくなってしまうから、
自分が今どこにいるのか知ってること、
すなわち、自分の姿を見せてくれる共に響き合う仲間が必要だよね、
というところにさろん楓は何度も辿り付きます。

 

それは、この動画でイチロー選手が語っているみたいな感覚。

→ こちら

  • 「最短でいける可能性」は無理だと思います。
  • 全くミスなしでそこに辿りついたとしても「深みは出ない」
  • 遠回りってすごく大事
  • 無駄な事って結局無駄じゃない
  • 今やってることが無駄だって思ってやってるわけじゃないけれど。

☆    ★    ☆

で、結局、どうなったか?
私が踊りたい曲で踊ってみることになりました。

 

ちなみに → コレ です。

 

やだな、とか言いながら、
さんご先生に聴いてもらいたいなってちゃんと曲を用意している自分(笑)
おかしいよね。

 

先生、私の希望を受け入れて、背中を押してくださいました。
ドキドキです♪

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