さろん楓ふなだまほです。
いつもありがとうございます。
出逢うもの、出逢う人って、出逢う出来事は、
すべて神の計らいだなぁと思う晩夏です。
もちろん特定の宗教の神様ではなく、
「困ったときの神頼み」の神様ですよ。
…「やってみたら?」と写経の用紙をもらって、
訳がわからないままやってみると
「空」という漢字から想起される世界観に
不思議な親しみ、興味を覚える。
どうせやるなら、般若心経の意味をわかってやったほうがいいよとの
アドバイスから、本を探し始めたら、
タイムリーにこんな本の存在を教えてもらって
あっという間に読んでしまいました。
なるほど!
わかったような、わからないような。
でも、ここが曲者だったりする。
わかる必要もない。
わかったと思うことのほうが
のちのちの「こんがらがり」になる。
写経に関しては書くたびに
違う感慨がありますが、
最初にストンと腑に落ちたのは
「心に妨げがないから、恐れるものがない」
というフレーズでした。
この夏、ふとした出来事から
私って、どれだけ怖いものがあるんだろう?と思っていました。
そして、それを防御することに
どれだけチカラを使ってきたんだろう?と思っていました。
自分の脳裏にあることが
さらにぐんっと自分に迫ってくる。
何を見ても、何を読んでも
人は自分に都合のよいように解釈する…の典型みたいですよね。
私は、そもそも自分の「純粋ばか」なところを
人に知られるのを勝手に自分だけ恥ずかしいと思っている。
だから、一生懸命クールに装ったりする。
「純粋ばか」なところを
誰かに笑い飛ばされたりしたことなんてないのにね。
また、母親の愚痴を聴いて育ってきた娘の悲しい性なのか、
どうしようもない事態になったとき、
何もできなくても、せめてそれに押しつぶされないように
何かに対して反発したり、抗おうとしたりする。
そうやって転んでもたたでは起きないところは
仕事では役立ってきたと思うけれど、
人との関係においては時に面倒なことになる。
余計なジャッジをせずに、
素直に傷ついて悲しんでいればいいのに、
みじめな自分、可哀想な人になりたくなくて、
強がったり、平気なふりをしたりする。
そういう防御の結果として、
どれだけ余計なことをしてきたんだろう、と思う。
そんな意図はないはずなのに、
防御するがゆえの刃がときに自分を追い込んだり、
時に相手に向いたりする。
玉ねぎの皮を剥くように
そんな痛い自分に何度も何度も出逢う。
そして、これからも出逢うんだと思う。
だから、私は「もう癒された」とか「ACから回復した」とか
現在完了型で語ることはずっとないんだろうと思う。
私がこんな話をすると、
「まほさんにもそういうのがあるんですね」と驚かれるのですが、
当たり前にあるんですよ。
それがめっちゃあるから、それを知ってるから、
誰よりそれを超えて人とつながりたいから
さろん楓をやってるんだと思うのです。
意識化できる度に自分と和解して、
それがそのまま人と率直につながることになっていく。
その瞬間がものすごく素敵だから。
さて。
強がったり、
シャッターを下ろしたり
茶化したり、
人を批判したり、
人を正そうとしたり、
しゃべりまくったり、はしゃいだり。
いろいろな防御を人はやっている。
でも、ここからが大事。
「それに気づいて止めましょう」を提唱してないです。
むしろ、どうか「それをしないこと」を目標にしないで、と思っている。
ずっとやってきた癖を悪者にしても、
それは更なる自己否定になってしまって
自分の行き場がなくなるだけだからです。
なぜ、そういう防御をしてきたかの歴史を
自分が理解することが先決。
だって理由があってやってきたんだもの。
反省も要らないです。
だって、本能的にやってきたことだもの。
ただ、大人になった今、
これしかできない、
こうするしかできない不器用な自分です、と
高倉健的になるんじゃなくて(笑)
選択肢が増えるといいなと思っている。
生きているこの瞬間瞬間が
すべて岐路であることを意識できたら、
そして、その瞬間にふと、いつもやっているやり方ではない
もうひとつの選択肢(Alternative)を
見つけられたら、それはめちゃくちゃ素敵。
それがけっこう率直で親密な関係を築く道だったりする。
モーレツに反省したり、努力したりする必要はない。
意識化できるだけで、物事の在り方は変容していくから。
でもね、それにだって正解はない。
正解のない道を自分の中のAlternativeを探しながら、
どうやって歩くか。
模索して、試行錯誤して、
悩み、迷い、嘆き、凹んでは、
それでもまた立ち上がって歩く。
そのプロセスそのものが自分自身になる。
魔法のように瞬時に変わりたいと誰もが願う。
私もかつてそう思っていたから、それはすごくわかる。
でも、残念ながら、さろん楓に一回来たぐらいでそういうことは起きない…です。
それは、私に力量がないということではなく、
そもそも、あなたの人生はそんなに薄っぺらではないからです。
一筋縄ではいかない自分、めんどくさい自分に
とことんつきあってみて欲しいって思っています。
近くを私も走っておりますから。
私は、根本的に女というものは強い生き物であると思っていて、
自分に対しても、
さろん楓にこられる女性にも
「強くあれ」って思っているんです。
でも、それは戦う強さでも
人を正そうとする強さでもなく、
耐え続ける強さでもない。
弱さを恥じないという強さ、かな。
そんな強い「私」を見つけられるよう、
じっくり自分を向き合ってみたいという方、
ぜひさろん楓にいらしてください。
お待ちしています。
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