繊細に感じよう そして、自己信頼の世界へ

4月、さろん楓と私自身が、目黒から大田区鵜の木に移り、
並行して、企業向けに日々ごはんをお届けする事業がスタートし、
私自身もまったく新しい日々を送っていますが、
さろん楓に足を運び続け、ご自身を見つけ続けている方たちが
より繊細に自分のことを感じられるようになっている様子に
心からよかったなぁと拍手を送りたい気持ちでいます。

 

「繊細に感じる」
それは、いい気分、ポジティブな感情だけでなく
ネガティヴな感覚、感情を含めて、です。

 

一般的には、いい気分でいること、
ポジティブな感情を増やすことを目指そう、という流れが強いと思いますが…、
さろん楓では、そうは言いません。

 

喜怒哀楽をどれも同等に感じ、受け止められる自分を目指しています。

 

ポジティブな感情であれ、ネガティブな感情であれ、どれも自分の感じたこと。

どれも同じように大切に扱いたい。

 

でもね「神経質になる」のとは違うのです。
そのニュアンス、伝わるでしょうか?

 

言葉をどう定義するか?という、これまた繊細なテーマになってきますが、
「神経質になる」とは、嫌悪感や不快感、恐怖感など
不快な体感覚とセットになっている感覚ではないでしょうか。

 

「繊細になる」とは、ただニュートラルに、実に中立的に、
かつ、丁寧に自分の感覚、感情を見つめる姿勢です。

 

あらゆる感情、体感覚を繊細に感じ、
それを善悪で判断するのではなく、
ただニュートラルに認め、その状況を肯定する。

 

それが、
「今ここを感じる」
「今ここに存在する」
「あるがままに在る」ということだから。

 

そのように「感じ」ないことには、
自分の人生は始まらない。

 

ちゃんと感じると、
自分で決断できるようになります。

 

「自分の人生」が展開してゆきます。

 

だから
「繊細に感じよう」
が合い言葉。

 

最近、立て続けに、自分を繊細に感じて
自分で決めて、行動して、
スッキリした顔で報告に来てくれる方が相次いでます。

 

★   ☆   ★

 

たとえば…

イライラしている、腹が立っていると感じていたことが
実のところ、恐怖感覚に近いものだったと気づく…。

家族の足音に、嫌悪どころではない、
ぞっとするような恐怖を覚えて、安心感のなさを再確認したり。

今まであまりに当たり前に耐えてきてしまったから
自分でも気付けなかった自分の欲求を明確に自覚するようになって、
それを人に告げずにはいられなくなった人。

人に対して感じていた猛烈な怒り。
でも、自分の感じている感情を繊細に感じてみようと努めてみたら
どうしようもない悲しみが湧き出てきて、泣いて泣いて…。
そうしたら、怒りはどこにもなくなっていた…。
怒りを感じていた人に対して、
ただ元気でいて欲しいと願う自分がいた…という方。

 

★   ☆   ★

 

自分で自分の感情を繊細に、しっかり感じるようになると、
もうそこに「人からどう思われるか?」とか
「常識的にはこうすべき」というような
いわゆる他人軸の発想、思考が入る余地がなくなるのです。

 

相談なんかする必要もなく
人の意見を聴くまでもない「100%自分」

 

より純度の高い自分の想いを表現するしか道がなくなる。

そして、その想いを表現する。行動する。

 

そうすると、それはそのまま人に伝わるのですね。

 

その人が純粋に感じたこと、
その瞬間には、間違いも正しいも、善悪の判断もない。

 

これが「被害者意識からの脱却」の第一歩です。

つまり、本当の自分の想いを自分自身が大切にできずに

他者の目や気持ち、世間の声や評価に合わせた意見を自らが採用して、

自分が自分を後回しにして、それに自ら不満を抱いている状況から抜け出すためには、

自分が自分の感情を感じないことには何も始まらないということです。

★   ☆   ★

 

 

けれどね、ここからが勘違いしやすいところなので要注意。

 

「被害者意識」がなくなって、
自分の気持ちを大切にできるようになってくると
「自分、自分!な人」になるのか?と言うと、そんなことはありません。

 

むしろ、逆です。

 

自分の本心、本音を大切に考えられるようになって、
いつも自分の気持ち、感情と共にいられるようになると、
いつしか、自分の気持ちを大切にするのと同じように
他者の気持ちを大切にしたくなってきます。

 

いや、できるようになってきます。

 

でも、他者の気持ちって、究極的にはわからないですから、
自分なりに察したことが正解とは限らないですから、
相手の気持ちの正解はその人しか持っていませんから、
その人に訊ねるしかありません。

 

そうして、コミュニケーションがうまれます。

 

わからないからこそ、

「あなたはどう思っているの?」
「あなたはどう感じているの?」と訊ねるのです。

 

出来事のやりとりや連絡事項の伝達ではない、
情感のやりとりの発生ですね。

 

そういうコミュニケーションをするようになってみると
他者の世界って、自分と全く違うということがわかってきます。

 

その違いを理解しようとすること、
すなわち、他者を理解しようとすることは、
全身全霊を傾けないとできないことだったりする。

 

そういう人との関係性の中にいると、
「皆はどうしているのかしら?」
「一般的には…」
「人からどう見られるか?」
という「外側」を気にしている場合ではなくなってきます。

 

クリエイティブな関係性を現在進行形で創っている証です。

 

また、そういうふうになってきたときに
「人の意見も聞かない、相談もしない」ようになるのがいいと言っているのではないのですよ。

 

人の意見を聴いてみてもいい、相談してみてもいいし、相談しなくてもいい。

このように選択肢が増える。

自分が選べるようになる。

 

選択肢が増えるって、真に豊かなことですよね。

★   ☆   ★

 

でも、そこまでたどり着くのに、
あちこちに落とし穴があることにお気づきかしら?

 

他者の気持ちを大切にしたくなって…きたはいいけれど、
そこで、相手の気持ちばかり考えて、
勝手に察して、決めつけて…とやっていたら
結局自分の思考の中に存在しているだけで
クリエイティブなコミュニケーションは生まれてきません。

 

「いつも人の気持ちを考えている」=「それこそ優しさ」=「私は優しい」
という独自の公式を持っている方も少なくないです。

けれど、それは、ニュートラルに観ると「勝手に察しているだけ」
でコミュニケ—ションが皆無、ただ自分一人だけの世界に安住している、こともあったりします。

 

ですから、被害者意識から脱却して、
他者と対等に豊かなコミュニケーションがとれる関係性を築いていくためには
自分の癖に気づき、それを超えながら、一歩一歩進む必要があるのです。

 

自分の考え方の癖、感じ方のパターンって、
自分ひとりでいたら気づかない。
自分ひとりで分析しても、内観していても気づけない。

 

人との化学反応の中でぱっと明るみに出る。
そこでやっと気づける。

 

そんなふうに自分のチカラで気づけると、変容、成長、成熟に弾みがつきます。

 

★   ☆   ★

 

そうやって進んでいると、

 

「いろいろな人が自分のことを想ってくれていた」
「私はけっこう周囲から愛されている」
「本当に大切なものは自分が全部持っていた、自分の手の中にあった」
「自分には決めるチカラがあった」

 

そんな自分に気づいてきます。

 

自己信頼の世界ですね。

 

自分を信頼できる。
それこそ「自信」

 

それは、この記事を読んでうなづいても、
ただセオリーを理解しても、あなたのものにはならない。

 

ただ、実体験するのみ。

 

さろん楓は、その自己信頼へ道を
サイコドラマを通して実体験できる場所です。

 

そのために必要な
「対話のチカラ」
「からだのチカラ」
「食の智慧」
も合わせて学べます。

 

これからどのように歩いていったらいいかわからない方には、まず

 

豊かさ&美しさリーディングセッション

 

をおススメいたします。

 

牧歌的な街、大田区鵜の木へ
自己信頼の世界を見つけにいらしてください。

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