【AC勉強会上級クラス】「見ないことも、逃げることもできないわけじゃないけど、それをしないで真摯に泣いて笑っている『わたし』には、うん、敬意を払いたい」

真帆さん

続AC勉強会の感想でも書いたと思いますが
「生きている価値のない人間なんていない」とか
「あなたには愛される価値がある」とか
「あなたは大勢の人に生かされているの」とか
「あなたが生まれてきたのは奇跡なの。それだけで価値がある」とかの
お題目や綺麗事が嫌いです。

 

大嫌いです。

 

したり顔でそういうこと言う人を見ると、
「頭湧いてんじゃねぇの」と思います。

 

その言葉をこれから死のうとする人の前で言ってみろよ。
今から、その「 価値あるもの」を手放そうとしている人の前で言ってみろよ。

 

AC勉強会で1年以上学んできても、
相変わらず「自分を愛するってなんだ?」と思うし、
それができたら、こんなことしてねーよ、とやさぐれています。

 

自分が特別、希死願望が強いとは思いませんが
どこかで、「もういいや」「早く終わればいいのに」と思う自分がいます。

 

だからですかね、彼女が逝ったときに、悲しいより寂しいより「羨ましい」がありました。

 

ああ、彼女はそれを選べたのか。
自分にはできないそれを、彼女は実行できたのか。

 

今は、ちょっと違います。

 

わたしはそれを選ばなかったのではなく
わたしの中の何かが、それをさせなかったのだろう。
わたしの中の何かが、わたしを、ここに留まらせているのだろう。

 

何か、は、まだ言葉になりません。
無理やり言葉にすれば「愛されている」「生かされている」になるのかもしれません。
だから、今のわたしが嫌いといっているお題目も、
いつか腑に落ちる日が来るのかもしれません。

だから、それを待とうと思います。

 

今のわたしは「自分を愛すること」がどんなことかわからないけれど
愛そうとする心を育てていくことはできる。

 

ぼうっとしていると、すぐに思考に支配されて屁理屈こねてしまうけど
いかんいかん、おなか・中心に意識を戻そう、と気づくことはできる。
きっと、それの繰り返しなんだろうな。

 

 

 

ようやく、ここまでたどり着いたーーーーーーーーーーーーー!!!

 

 

 

と、今、打ちながら叫んでいます。

 

まほさんの本のタイトルじゃないけど
わたしをあきらめない「わたし」に今は感謝してます。

 

それが、今、わたしをここに留めていて
そして、自分と向き合う 行為をさせているのだと。

 

見ないことも、逃げることもできないわけじゃないけど
それをしないで真摯に泣いて笑っている「わたし」には、うん、敬意を払いたい。

 

もっとらくに生きる道も、きっとあったんだろうけどなぁ・・・。
まあ、それをしないでいるからこその自分なのでしょうが。

 

 

こんな問いに、私が答えられるわけではない。

たとえ、答えたとしても、それではまったく意味がなく、

彼女が自分で感じ取らなかったら、それは単なる正論の押し売りで…。

 

だから、彼女が、彼女たちが自ら「何か」を感じ取れるように、

そのきっかけをつかめるように、

そのためのステージをあれやこれやと用意している…というのが

AC勉強会の上級クラスです。

 

屁理屈から「おなか・中心」に意識を戻そうという力が働くとき、

絶望を超えて、「私をあきらめない」ことを選んだとき、

自分に感謝するとき、

自分に敬意を払うとき、

それは、とても自分を大切に愛おしんでいることなのではないかなと思う。

 

「愛する」って綺麗で美しい絵空事じゃなくて

けっこうぐちゃぐちゃな感じの強さなのではないかと思うんだよね。

 

真帆

 

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