さろん楓 真帆です。
いつもありがとうございます。
先週金曜日は、3回目となる
「エロス・タナトス 〜愛と死のおはなし会〜 「微笑みながら、看取るために、看取られるためにできること」
でした。
この集いは、夜だからでしょうか、
ろうそくの灯りが燈るからでしょうか、
さろん楓という「場」がいつもに増して、
重厚感ある、温かい、優しい空気感に包まれます。
2回、3回と重ねて足を運んでくださる方がいらっしゃることも
私たちにとって嬉しいことです。
頂いた感想をご紹介させていただきます。
金曜日はありがとうございました。
死にまつわることをゆっくり話したり感じたりする機会はいままでなかったので、とても貴重な時間でした。身近な人や自分の死、その最後をどうありたいかを考えると、その方と共に生きる時間を満ち足りたものにし、いつどちらが死を迎えても悔いることがないようにしたいと思いました。日々ご縁のある方を大切にすることは、今生を深めてくれるでしょうね。ますますいまこの時をいとおしく感じます。お話会の後 からじわじわと、死と生について様々なことが思い出され、感じられます。
貴重な時間をありがとうございました。また開催が決まりましたら、お知らせをいただけるとうれしいです。
この日は、2人がペアになって、交互に「死にゆく人」「看取る人」になるという瞑想を行いました。
ある方が言われていました。
「ただいるだけでいい。存在しているだけでいい、とは、よく聞く言葉だけれど、どうしても、何かしないとダメなんではないかと感じていた。でも、あの瞑想をして、人はただ存在しているだけでいいという感覚が初めて、ほんのちょっと掴めた気がしました。『死』を漠然と怖いと思っていたけれど、そうではないかもしれないと思えました」
この集いに興味がありながら、やはり「怖い」と参加を見送っている方、
私が存じているだけでも数人いらっしゃいます。
私自身、この回を催すたびに、皆さんが死への想い、死者を思い出す語りを聴くたびに
怖さどころか、とても温かい何かに出会わせていただいています。
会の最後で、終末期専門看護師麗子さんに、こんな質問が出ました。
<その1>
友人で、親の死に目に会えなかったことを悔いている方がいます。
四六時中、病院にいたのに、ちょっとだけ出かけたときに逝ってしまった…。
親の死に目に会えない=親不孝、という概念もありますが、
実際のところ、どういうものなのでしょうか。
<その2>
数年前に父を見送りました。そのとき、このような経過でしたが、
あの医療的処置が父にとってものすごく苦しかったのではないか?
あれでよかったのか?と時折思い出します。
この経過をどう思われますか?
これに対して、麗子さんが経験を積んだプロフェッショナルとして、
また、一人の人間として答えてくださいました。
こういう生のおはなしを聴くだけで、
死に対する世界観が変わってくると思うのです。
この集い、これからも開催させていただく所存です。
次回は、1月末かな、決定次第、お知らせいたしますね。
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