『あったか靴下』のアナザーストーリー

さろん楓ふなだまほです。
いつもありがとうございます。

 

その昔「私の作品2」とさらりと言われて
ものすごく複雑な思いをしたことがありました。

 

ああ、本当にそう思っていたのね、と。
自分に意図に沿うように仕上げてきたのね、と。

 

この人の悪気のない、少女のような顔して
サラリと放つ言葉に、
私はいったいどれだけグサリと刺され
バッサリと切られたろう?と思うのだけど。

…我が母のことです。

 

そんな傷たちが想像よりも深いことに最初に気づいたのは

25歳ぐらいのことでしょうか。

 

30歳を過ぎてから、私は、その傷をえぐるような

作業を敢えてスタートしました。

そこを避けては、自分が子どもを育てるなんて

怖くて怖くてできなかったから。

 

パンドラの箱を開けたんですね。

 

ここは随分と割愛することになりますが、
子ども時代に持っていなかったもの、失ったもの、
得られなかったもの
しなくてもいいような思いをしたことをさんざん嘆いたら、
ああ、これは持っていたよね、
当たり前過ぎて気づいていなかったけど、
これは与えてくれていたんだねというものが
いくつもあぶりだされてきました。

 

とことんやるってけっこう大切です。

 

縁を切ろうと思ったぐらい許せないこともありました。
消えてくれと願ったこともあった。
これまでどんな思いをしてきたか!と手紙を書き送ったこともある。

 

でも、ありがたいことにどんなに憎んでも、
親子の縁は切れなかった。

憎しみって変わるんだ、

それを親以外から学ぶことはできないように私は感じます。

 

憎んだから「赦し」もあった。

 

そんなことがあってからもう8年ぐらい経つでしょうか。

 

私が40歳を過ぎて、
母が70代中盤になって。

 

最近になって、すごい女だわね、とその世界観の広さに驚かされることもあれば、
それゆえに私が勝手に期待感を膨らませてしまって、
ああ、母はそもそもこういうことを考えられる女ではなかったと
一人失望することもある。

 

すっごい仲良しかというとそんなことはありません。
むしろ妹と母のほうが仲がいいです。
食事に行ったり、旅行に行ったりも特にしないです。
今はあまりしようとは思わない…ですね。

 

でもね、私は、母の作り出す手仕事の世界が大好きなんです。

 

さろん楓でご紹介している麻ふんどしも母の作品です。
レースや刺繍が可愛くてね。

今、さろん楓ではお取り扱いはありませんが、
ジェムリンガのカラフルおくるみも母の手によるもので
現在は、さろんあまてらすガンダラーニさんによって、
多くの方に届けられています。
(ガンダラーニさん、ありがとうございます)

 

そして、毎年この時期になると届く毛糸靴下。

 

いつもこんな色合わせの魔法を魅せてくれていたよなと思うと
これは紛れもなく私の財産なのです。

 

思えば、母の料理や裁縫の手元を

綺麗な手仕事というクリエイティブな現場を

魔法のようだと感じて見つめていられたことは

どれだけ私にとって確固たる温かいものか。

 

それが今年もやってきてくれたと思うと
じんわり嬉しい秋の日です。

 

今回は、それを配達してきてくれたのが
息子だから尚更かな。

 

光と闇の両方を抱きしめていられるとき、

人は真に落ち着くことができるのではないかと思います。

 

今、アイロニーをたっぷり込めて、

このあったか靴下は、
私ふなだまほの“製作者”である母が創っております、と言えるのですよね。

 

…母が自分の作品とばかりに
私の気持ちや感覚を無視して育ててくれたから、
私は自分の感覚や感情を取り戻すという作業が必要になった。

その体験で私は「私」になれたから、
そういう場が皆に必要と思ったからさろん楓は生まれた。

 

そういう歴史がなかったら
「ふるゆさ」もAC勉強会も生まれていないんです。

 

だから、AC勉強会の皆さんは

母に足を向けて寝られないわね(笑)

 

とまぁ、元を正してゆくと
さろん楓があるのも、
今のふなだまほがあるのも
すべてこの人のおかげです。
(キャストは他にもおりますが)

 

こういう傷みの活かし方いかが?
という私ふなだまほの提案の象徴のような
毛糸靴下たちなのでした。

 

これをはいて

皆さんそれぞれの親とのストーリー、

紡いでいって欲しいのです。

得られなかったものを嘆き、

時には憎み、赦し

足りなかったものを学び直し、
自分を活かしてゆく道の歩み、
共にしていきませんか?

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