26歳、NYでの出逢い その3

さろん楓ふなだまほです。

いつもありがとうございます。

 

「26歳、NYでの出逢い」3部作、最終回です。

その1は ⇒ こちら
その2は ⇒ こちら

 

社長と衝突したことをきっかけに
会社を辞めることになったわけですが、
その衝突とは、いったいどんなものだったのでしょう?

 

今後の部の方向性を話し合っているときのことです。

明らかに不満をもっている(でもそれを言えない、
当たり前にそんなことを言ってはいけないと思っている)私に、
社長は苛立ちを隠しませんでした。

 

「あんたは、みかん箱の中の腐ったみかんだ」と言われました。

 

(余談ですが、この言葉は随分と後を引きましたね。
毎冬、みかん箱の中で腐り始めるみかんを見ては、
私はこれか…と小さく凹んでいましたが、
あるとき、腐敗の伝染力について考えてみたら、
それは影響力だとわかった。
「私の影響力の強さを恐れた」ゆえの攻撃の言葉だったと

客観的に理解できるまで何年かかっただろう?)

 

「不満があるなら、もうここで全部言ってみなさい」
そう言われて、しばしの沈黙の後、
自分の口から出た言葉に
私は唖然としました。

 

私、何を言ってるんだろう?

 

これお母さんに言いたいことじゃない?
会社で社長に言うようなことじゃない。

一番やってはいけないことをやった。

本当に恥ずかしかった。

 

社長も観念した顔をしていました。

そして、一言。
「あんたは、これからどうするの?」

 

ここで泣いて「それでも頑張ります!」と言う道もある、

あー、私はどっちの道にも行けると思った途端に、
「やめさせていただきます」という言葉が
口からついて出ました。

 

ふなださんが辞めるらしいという速報が会社内に流れ、
それは「辞めますと言うくだりが潔くてかっこよかった」
という論調でしたが、正直なところ、
私は、自分の恥ずかしいセリフが皆に知られてしまうことを
恐れてもいました。

 

だって、私、
「私はこんなに頑張ってきたのに、
あれもやった、これもやった、なのに、評価されない」
「今(評価されている)○○さんに仕事を教えたのは私なのに」
みたいなことを言ったのですから。

 

今となっては、そういう痛みを持っていた自分、

ああ、そういうことを思って納得できない想いでいたよねと

認められるので、ここに書くことも恥ずかしくないのですが
当時は本当にそれが恥ずかしかった。

結果的に、お腹の中の赤ちゃんの存在で
円満退社となりましたが、
私としては、自分の中に鉛のような重たいもの、
いつか向き合わなければならない爆弾のようなものの存在が
アタマの片隅に意識させられることとなったのです。

 

当時は「自分と向き合う」なんてフレーズ、
なかったですし、日々意識していたわけではなかったですけれど。

 

そして、晴れてフリーランスになった私が
大きくなりはじめたお腹で営業した代理店で
出会った案件が、なんと「AC」だったのです。

 

その本の企画を聞いたとき、
ああ、ここでまた私は再びACに出逢うんだ…と
人生のからくりのようなものを感じました。
(既に、ACという概念には一度出逢っていましたから)

 

そして、私はまた同じように思うのです。
この本は私が手掛けることになるなって。

 

それは、これだ!というような力強いものではなく、
なんだか宿命のような、いくらか重たい感触でした。

 

実際に、数日後、予想通りその仕事の依頼をいただきました。

 

その本を仕上げて、お産にのぞみ、
産後は、乳飲み子を抱えながら、
その先生のもとで仕事をしつつ、
自分の生い立ち、心の中のパンドラの箱を開け、
ずっと蓋をしてきた自分を「感じる」「表現する」という
海のものとも山のものともわからないテーマに臨みながら、仕事をし、家事をし、
子どもを育てながら、自分を育て直すという毎日を送っていたのです。

 

このへんははしょりますが、
それがそのまま今に、このさろん楓につながっています。

 

一冊の本との出会いが、人生を変えた!というような
大袈裟なものでもないのですが、
この本に出逢ったところから、
道のようなものがずっと続いてきて
その都度、出逢いという名の扉を開けてきて、今があります。

岐路もあったよね。
そして、これからもそうやって歩いていくのかな?そうなんだろうなぁと
ろうそくの光の元に想うお盆です。

 

ありがとう。

ありがとうございます。

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