さろん楓ふなだまほです。
いつもありがとうございます。
家族や親について悩んだことがいないのと同様に、
友達に関して悩んだことがない人はいないと思います。
「友達は多ければ多いほどいい」
と考えている方は今はあまりいないかもしれませんね。
(Facebookの「友達」となると、ちょっと概念が違ってくるので、
そこは多ければ多いほどいい…という考えになるかもしれません)
広く浅い付き合いよりも、
深く濃い付き合いを…と多くの方が口にします。
でも、実際のところ、
友達が多くはないことの負け惜しみ感で
そう口にしている場合と、
本当に人と深く関わりたいと望んでいる場合がある…。
でも、どっちであるにしろ、
深くて濃い付き合いの中身っちゅーもんが難しい。
模範解答はないし、
誰かがそれは違うよ、間違ってるよと指摘する基準もない。
でも、友を求めない人はいない。
これは万国共通ではないでしょうか。
セッションでそんな友達の悩みのお話になると、
いつもご紹介するのがこの冊子です。
- 「ゲド戦記」の世界
(岩波ブックレット)/岩波書店 - ¥518
- Amazon.co.jp
ジブリで映画化された『ゲド戦記』を
ご存知の方も多いと思います。
(映画はあくまでも映画なので、
ぜひ原作を読んでいただきたいです)
原作者はアーシュラ・K・ル=グウィンというアメリカの小説家、女性です。
それを日本語に翻訳したのが私が敬愛してやまない清水真砂子さん。
この小冊子『「ゲド戦記」の世界』の中で、
清水さんは、作品を訳しながら、
作品が湧き出た泉である原作者ル=グウィンの
人となり、ものの捉え方、世界観を見つめ続けます。
そして、こんなふうに書いていらっしゃいます。
そんなことを思いながら、でもほぼ30年にわたる、
ル=グウィンとの旅——なんて言うと、とてもおこがましくて偉そうなのですが——
をふりかえって、私が非常に幸せに思うのは、さきほどから、ちょこちょこお話し
してきましたが、、彼女が考えていた問題のそれとが共通していることが
多かったということです。
私は、異性の友人もそうですが、同性の友人もあまりもたずにきました。
『外伝』の「あとがき」にも書きましたとおり、
友人がきわめて少ない日々を送ってきたなかで、
同性の友人、あるいは同志とも思えるル=グウィンに出会えたのは、
最高の幸せでした。
もちろん、四十代の後半から五十代、六十代になって、
国内のいろんなところに若い頃には夢にも思わなかったいい友人ができて、
それはそれでうれしいのですけれども、
ル=グウィンに会ったとき、彼女は私よりもちょうどひと回り上ですが、
「ほんとうに同性の友人っていいな」と心の底から思いました。夫ともまた違う。言うまでもなくル=グウィンにとっては、私はone of themでしかないかもしれません。
でも、私は三十年、彼女を意識しながら、ずっと歩いてきて、ついに今、その人が目の前にいる。
オレゴン州ポートランドで会ったとき、私はそう感じました。
同時に「会うことを急がなくてよかった」と思いました。
私がこれを読んだのは何年前のことでしょう?
なんだかほっとしましたね。
友達を作ろうとするよりは、
ただひたすら「私」であろうとする道を歩いていれば
きっと素敵な人、素敵なことに出会える…!
そんな根拠のない確信を私に与えてくれた文章です。
道なき道でも、まず自分が歩いて、
そこに轍(わだち)ができれば
いつしかその道を選ぶ人が現れるかもしれないし、
まったく違う方向から同じ道を志している人に出逢うかもしれないって。
実際に、そうするようになってから
別れを告げる形にならざるを得なかった友もいたし、
疎遠になってしまった関係もありますが、
出逢った友はかけがえがなく、
古い友と再び深く出会い直すということもあります。
40を過ぎてからは、世代を超えた同性の友人ができるようになり、
50、60と歳を重ねることが楽しみだなと思ったりもする。
“ただひたすら「私」であろうとする道”とは、どういうことか?と言うと、
「○○社」の社員であるとか、
「母」「妻」「娘」というような「役割としての自分」ではない
「私」として生きようとすること。
さらに、一人の人間としての自分に敬意を払うこと、
自分を茶化さないこと、が
真の友、同志に出逢う秘訣なのではないかと思います。
私たちは、自分を理解するようにしか、
相手を理解できない。
それと同様に、自分に敬意を払うことができると
人にも敬意を払うことができる。
そこはイコールなんですよね。
最近、AC勉強会やセッションでよく話していますが、
謙遜と自己卑下はまったく違うものです。
「私なんて…」という態度を
私たちはついやってしまいますが、
実はそれ、控えめでもなければ、謙遜でもない。
自分を茶化すこと、ちょっとやめてみませんか?
一方で、いつでもどこでも自分を主張せずにはいられないその想いの根底には
被害者意識、犠牲者意識があるかもしれません。
これについてはまた別の機会に書こうと思います。
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